大判例

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東京高等裁判所 平成6年(行コ)113号 判決 1998年3月25日

控訴人(被告)

小諸労働基準監督署長

片井稔

指定代理人

本田敦子

外五名

被控訴人(原告)

嶽信子

訴訟代理人弁護士

中村正紀

西村依子

田中清一

野村侃靱

菅野昭夫

加藤喜一

岩淵正明

鳥毛美範

奥村回

飯森和彦

川本蔵石

橋本明夫

訴訟復代理人弁護士

岡村親宜

望月浩一郎

上柳敏郎

玉木一成

大森康子

水野幹男

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人の請求を棄却する。

3  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  被控訴人

主文と同旨

第二  事案の概要

一  事案の骨子

本件は、発電所の導水用トンネル修繕工事現場において坑夫として抗内作業に従事中、くも膜下出血を直接の原因として死亡した嶽秀雄(以下「秀雄」という。)の妻である被控訴人が、秀雄の死亡は業務上の災害によるものであるとして、控訴人に対し、労働者災害補償保険法一二条の八第一項に定める遺族補償給付及び葬祭料の支給を請求したところ、控訴人からこれを支給しない旨の決定を受け、これに対する審査請求及び再審査請求のいずれも棄却されたため、右の不支給処分の取消しを求めて提訴した事案である。

原審においては、①秀雄のくも膜下出血は、秀雄が作業現場の仮設ステージから転落して頭部を強打したために生じたものかどうか、②秀雄のくも膜下出血が転落前に生じたものであった場合でも、それは秀雄の労働状況・作業環境によって生じたものとして、秀雄の死亡に業務起因性を認めることができるかどうか、の二点が争点となったところ、原判決は、①の点についてはこれを否定したが、②の点についてはこれを肯定し、被控訴人の請求を認容した。

そこで、控訴人が原判決の②の点についての判断を不服として控訴したところ、当審においては、②の点に関連して、秀雄のくも膜下出血の原因が、脳動脈瘤の破裂か(被控訴人の主張)、脳動静脈奇形の破裂か(控訴人の主張)が、新たな争点となった。また、この関係で、②の点について、原審においては、もっぱら、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形の破裂であることを前提として争われていたのが、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤の破裂である場合における業務起因性の有無が、争点として加わった。

二  当事者間に争いのない基礎的事実

当事者間に争いのない本件の基礎的事実については、原判決の「第二 事案の概要」の「一 当事者間に争いのない事実」の1項及び3項の各記載を引用する。ただし、次のとおり補正する。

1  原判決三頁五行目の「(」の次に「昭和一七年七月九日生まれ。」を加え、四頁三行目の「路の」を「路用」と改め、同行の「既設」の次に「トンネルの」を、三、四行目の「コンクリート」の次に「壁の」を、それぞれ加え、九行目、五頁一行目、三行目の各「斫り」をいずれも「コンクリート破砕」と、四行目の各「斫り」をいずれも「コンクリート破砕作業」と、五行目の「一・五三」を「一五三センチ」と、それぞれ改め、九行月の末尾に「この秀雄の死亡の直接の原因はくも膜下出血であった(以下、秀雄が本件現場において従事していた一連の作業を総称して「本件業務」という。)。」を加える。

2  原判決七頁三行目の「更に」の次に「同年四月一一日、」を加え、同行の「審査会長」を「審査会」と改める。

三  争点及び争点に関する当事者の主張

1  秀雄のくも膜下出血は、秀雄が作業現場の仮設ステージから転落して頭部を強打したために生じたものかどうかについて

右の争点に関する当事者の主張については、原判決の「二 争点及び争点に関する当事者の主張」の1項の記載を引用する。ただし、原判決七頁一〇行目の「斫り」を「コンクリート破砕」と、八頁二行目の「下に」を「下のズリ上に」と、それぞれ改め、三行目の「転落」から四行目の「破綻し、」までを削る。

2  秀雄のくも膜下出血の原因は、脳動脈瘤の破裂か、それとも脳動静脈奇形の破裂かについて

(被控訴人の主張)

秀雄のくも膜下出血の原因は、脳動脈瘤の破裂である。このように判断する根拠の概要は、以下のとおりである。

(一)秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形の破裂であるとする根拠はないことについて

(1) 剖検所見は脳動静脈奇形の存在を指摘していないこと

佐久総合病院臨床病理部長石井善一郎(以下「石井善一郎医師」という。)の作成した剖検書〔乙五二号証。以下「剖検書」という。〕には、秀雄の脳底部血管系についての異常所見に関する記載がみられるが、その異常所見が脳動静脈奇形であるとの記載は一切ない。また、原審における証人尋問の際においても、石井善一郎医師は、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形であるとの証言を一切行っていない。このように、秀雄の剖検に当たった石井善一郎医師自身は、その指摘する秀雄の脳底部の血管奇形がいかなる種類の疾患であるのか、何ら特定していないし、特定もできない。

なお、脳動静脈奇形破裂は、くも膜下出血の原因のうち脳動脈瘤破裂の次に多い原因であって、脳動静脈奇形は、一般に著名な病変であるから、石井善一郎医師が脳動静脈奇形を知らなかったとは思われないのであり、したがって、石井善一郎医師が、剖検書において、その指摘する秀雄の脳血管の異常所見について、これを「脳動静脈奇形」と診断せず、単に「血管奇型」としか記載しなかったのは意識的なものと推察される。

(2) 剖検所見に誤りがあること

石井善一郎医師は、剖検書において、秀雄の脳底部血管系の組織学的異常所見として、①脳底部の幹部動脈から派生する小動脈及び細小動脈中に、強く蛇行走行し内弾性板の欠如ないしは形成不全を示す異常組織があり、これが正常な組織と交互に入り乱れてくも膜下腔に小血管集団を形成していること、また、②脳静脈系に、血管壁が肥厚し波状を呈する膠原繊維からなり、全く平滑筋を欠く異常構造をとる小静脈及びその周囲に拡張した極度に薄い壁をもつ静脈性毛細血管網が形成されていること、を指摘し、秀雄の広範なくも膜下出血の原因は、右の異常静脈叢の破綻に因るものと考えられる、と考察している。

しかし、脳血管障害病理を専門とする山梨医科大学吉田洋二教授(以下「吉田洋二教授」という。)は、秀雄の脳組織標本及び対照標本を検討した上で、石井善一郎医師の指摘する①及び②の「異常所見」は、正常範囲内のもので異常所見とはいえないと判断しており、同教授は、結論として、「本例に関し提供された資料には、くも膜下出血の原因と考えられる血管病変を認めることはできなかった。つまり、脳動静脈奇形によるくも膜下出血と診断できる所見は認められなかった。」としている〔甲五四号証「鑑定書」。以下「吉田意見書」という。)〕のであって、右の剖検所見は誤りというべきである。

なお、不可解なことに、石井善一郎医師は、原審における証人尋問の際、「この死体の主病変であるのは、脳動脈の病変なんですが、これを見ますと、脳底動脈を見ますと、内頸動脈から派生している動脈のうち中大脳動脈の基部、そこに、まあ大きさははっきりしたことは、だいたい出血を起こしているんで分からないんですが、かなり大きな、直径一センチ以上ないし二センチ位の大きな塊があるんです。」などといった剖検書には全く記載されていない異常所見について証言しているのであって、このことは剖検書の記載の信頼性に大きな疑問を生じさせるものである。

(3) 秀雄の剖検における手順に誤りがあること

秀雄の剖検には手順の誤りがあり、このため、果してくも膜下出血の原因検索が行われたか否か疑問である。

すなわち、くも膜下出血症例の脳を剖検する主たる目的は出血源の究明であり、そのためには脳のホルマリン固定以前にくも膜下の血腫を洗浄して主要血管を検索することが病理学上の基本である。なぜなら、固定後は出血塊は石灰の塊のようになるため、中に埋もれた脳動脈を破壊しないように遊離し、破裂した脳動脈瘤の解剖関係を詳らかにすることは至難の業となってしまうからである。

ところが、秀雄の剖検においては、脳を固定する前に血腫の洗浄を行って、主要な血管を検索することは行われなかった。このため、秀雄の脳底部の血液部分は「石灰の塊」になってしまい、動脈瘤の検索は不能となったのである。

なお、剖検書には、秀雄の脳底部血管系の肉眼所見として「脳底動脉及び動脉輪を構成する動脉には動脉瘤の存在を確認できず」との記載があるが、その意味合いは、検索不能であったため、「動脈瘤の存在を確認できなかった」というものと理解すべきである。

(二) 秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤の破裂であるとする根拠について

脳神経外科の専門医である高松赤十字病院脳神経外科副部長・医学博士新宮正(以下「新宮正医師」という。)は、要旨、次のような根拠により、秀雄のくも膜下出血の原因は、右中大脳動脈分岐部より発生した脳動脈が破裂したものと考えられる旨の見解を示しており〔甲五七号証「鑑定意見書」、五八号証「反論書」。以下、これらを「新宮意見書」という。)〕、被控訴人も、右の見解を援用するものである。

(1) 新宮意見書の結論

① 秀雄のくも膜下出血の原因は、脳動脈瘤の破裂と考えられる。

②a 秀雄のくも膜下出血の発症の様式、発症から死亡に至る急速な経過は、脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血に特有の臨床像であり、他の原因を考えることは困難である。

b 秀雄のくも膜下出血の発症年齢は、脳動脈瘤破裂によるものと考える方が、脳動静脈奇形の破裂によるものよりも蓋然性が高い。

c 石井善一郎医師により秀雄のくも膜下出血の出血源とされる「血管奇形」は、脳動静脈奇形とは考え難く、むしろ、右中大脳動脈分岐部に発生した比較的大きな脳動脈瘤であった可能性が高い。

③ 秀雄の剖検所見、脳切時の剖検脳の写真及び石井善一郎医師の証言調書によって提出された事実からは、秀雄の脳に病理学的に証明され得る明らかな脳動静脈奇形が存在した科学的根拠は全く認められず、吉田意見書でも明確にその存在が否定されている。

(2) 右の結論に達した根拠についての概要

① 秀雄の発症状況及び死亡経過で最も特徴的なことは、発症直後より昏睡状態であり、しかも発症から死亡までの経過が極めて短時間であったという事実である。

② くも膜下出血の原因となる主な疾患は、脳動脈瘤破裂、脳動静脈奇形破裂、等々が挙げられるが、本件において、秀雄のくも膜下出血の原因として残るのは、脳動脈瘤破裂と脳動静脈奇形破裂である。

しかし、右の二つの疾患によって起こってくるくも膜下出血の臨床像には次に述べるような明確な差異がある。

a 発症年齢

脳動静脈奇形によるくも膜下出血の発症年齢は、一〇歳から三〇歳台が多く、全体の七〇ないし九一パーセントを占めており、一〇歳以下及び四〇歳台以上の症例は少ない。

これに対し、脳動脈瘤破裂の発症年齢は、四〇歳から五〇歳台が最も多い。

したがって、秀雄の発症時の四二歳という年齢は、脳動静脈奇形よりは、むしろ脳動脈瘤の破裂によるものと考える方が蓋然性が高いことは明らかである。

b 臨床症候

脳動静脈奇形の破裂によって生じるくも膜下出血は、脳動脈瘤破裂時の出血に比べると、一般的に程度が軽く、最も重篤な場合には死亡するが、その頻度は一〇ないし一九パーセントに過ぎない。また、脳動静脈奇形破裂の重症例は、単なるくも膜下出血ではなく、大きな脳内血腫、著名な脳室内出血との合併である。

秀雄の剖検所見には「脳実質内には出血を認めない」と記載されており、秀雄のくも膜下出血は、脳内血腫、脳室内出血を伴わない純粋なくも膜下出血であるといえる。

右のように、脳動静脈奇形の破裂によるくも膜下出血の特徴は、秀雄のくも膜下出血とは明らかに異なっており、臨床症候の観点からは、秀雄の死亡原因となったくも膜下出血が脳動静脈奇形破裂とは考えられない。

これに対し、脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血は、非外傷性くも膜下出血の七〇ないし八〇パーセント(脳動静脈奇形破裂は約一〇パーセント)を占め、脳内血腫、脳室内出血を伴わなくても発症時より意識消失をきたすことが多く、急速な経過で死亡する例が稀ではない等、aの発症年齢も含め、すべての点で秀雄のくも膜下出血が脳動脈瘤破裂によるものであった蓋然性が高いことは明らかである。

③ 剖検書における「脳底動脉及び動脉輪を構成する動脉には動脉瘤の存在を確認できず」との記載は、前記(一)(3)のように剖検の手順に誤りがあったため、動脈瘤の存在を検索することが不可能であったのであるから、脳動脈瘤の存在を否定する根拠とはならない。

④ 右のような諸点を総合的に考慮すると、脳動脈瘤の好発部位であり、比較的巨大な動脈瘤を形成しやすい部位でもあるシルヴィウス裂内に、右中大脳動脈分岐部より発生した比較的巨大な脳動脈瘤が存在し、この動脈瘤の破裂が秀雄のくも膜下出血の原因となったものと考えられる。

(控訴人の主張)

秀雄のくも膜下出血の原因は、脳動静脈奇形の破裂である。このように判断すべき根拠の概要は、以下のとおりである。

(一) 剖検書の記載及び解剖医の供述は、脳動静脈奇形がくも膜下出血の原因であることを示していることについて

(1) 秀雄のくも膜下出血の原因が何であるかは、あくまでも剖検書の記載及び解剖医(石井善一郎医師)の供述を基にして考察すべきところ、剖検書の「4 脳底部血管系の組織学的異常所見」欄には、①「小動脉、細小動脉に強い蛇行走行を示すものがあり」との、②「動脉の内弾性板が欠如乃至形成不全」との、③「(静脈系については)その壁が肥厚し」との、各記載があるが、これらの記載は、成書における脳動静脈奇形に関する記述と合致するものであり、このことからすると、剖検書の「4 脳底部血管系の組織学的異常所見」欄の記載は、脳動静脈奇形を描写するものと考えられる。

したがって、剖検書の「病理解剖学的診断」欄の「血管奇型の破綻によって起った非外傷性の急性脳底部蜘蛛膜下出血」との記載、及び「臨床診断・病理学的診断名」欄の「脳底部広範くも膜下出血(脳底部血管奇型による)非外傷性」との記載は、いずれも脳動静脈奇形がくも膜下出血の原因であることを示すものというべきである。

(2) これに対し、被控訴人は、吉田意見書が、「本例に関し提供された資料には、くも膜下出血の原因と考えられる血管病変を認めることはできなかった。つまり、脳動静脈奇形によるくも膜下出血と診断できる所見は認められなかった。」としていることから、秀雄の脳底部血管系の異常所見ないし血管奇形等に関する剖検書の記載は誤りである旨主張する(被控訴人の主張(一)(2))。

しかし、本件解剖後本訴の提起までの約五年の間に、病巣部位の標本が機械的に整理、廃棄された可能性は否定できないから、吉田意見書の資料とされたプレパラート標本が秀雄の剖検資料のすべてであるとはいい難く、したがって、石井善一郎医師が確認したという血管奇形(脳動静脈奇形)が実際には存在しなかったと判断することはできない。

(3) また、被控訴人は、石井善一郎医師が原審における証人尋問の際に、剖検書には記載されていない異常所見について証言しているとし、このことを理由に、剖検書の記載の信頼性に大きな疑問がある旨主張する(被控訴人の主張(一)(2))。

確かに、被控訴人の指摘する石井証言部分の内容そのものは、剖検書の記載にはないものである。

しかし、秀雄の脳の剖検所見に関する石井証言を全体としてみれば、その内容は剖検書の記載内容と合致するから、右の石井証言部分があるからといって、剖検書の信頼性が減殺されるものではない。

(二) 秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤の破裂であるとする根拠はないことについて

(1) 剖検書の「3 脳底部血管系の異常所見(肉眼所見)」欄には、「脳底動脈及び動脉輪を構成する動脉には動脉瘤の存在を確認できず」との記載があり、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤破裂であることは、解剖医によって明らかに否定されている。

(2) これに対し、被控訴人は、解剖医である石井善一郎医師の病変検索方法には、くも膜下の血腫を洗浄して主要血管を検索する前に脳のホルマリン固定を行った等の誤りがあり、このため動脈瘤の検索ができなかったはずであるから、剖検書の右記載は、文字どおり動脈瘤の存在が確認できなかったことを意味するものと解すべきである旨主張する(被控訴人の主張(一)(3))。

しかし、外傷の有無等の検索を含めた総括的な脳の検索を目的とした本件解剖においては、採られた手順に誤りはなかったというべきであるばかりでなく、ホルマリン固定された脳であっても、脳底部の血管に沿ってピンセットで丁寧に凝血塊を排除していけば、出血源を探し出すことができるし、脳切が行われた後でも、適切な検査方法を採ることにより脳底部のウイリス輪とそれに連なる主要動脈枝に発生した嚢状動脈瘤は粗漏なく認知、観察することができるのである〔乙八六、八七、八九号証〕から、被控訴人の右主張は失当である。

(3) ところで、被控訴人は、秀雄のくも膜下出血の原因が動脈瘤破裂であることの積極的な根拠として、主として、発症年齢と臨床症候とを挙げる(被控訴人の主張(二)(2))。

しかし、発症年齢の点については、最近の報告では四〇歳代の発症も相当数あり〔乙一六号証〕、当審における証人尋問において新宮正医師は、脳動静脈奇形破裂は二〇歳から四〇歳までに非常に多く見られる旨証言するが、秀雄は発症時四一歳六月と四〇歳代の初頭であったことなどからすれば、統計的な観点からも、直ちに秀雄のくも膜下出血の原因が動脈瘤の破裂による蓋然性が高いとはいい難いというべきである。

また、臨床症候の点については、秀雄の脳動静脈奇形の発症部位(中大脳基部に導入動脈を持つ脳底部)には前頭葉底部と側頭葉底部の間の広い髄腋のスペース(脳槽)があり、脳動静脈奇形のナイダス(血液は、正常な脳循環では動脈、毛細血管、静脈の順に流れているが、脳動静脈奇形では先天的に毛細血管を欠いており、動脈が異常な血管塊を介して直接静脈に吻合する短絡回路を形成している。ナイダスとは、この異常な血管塊をいう。)がその空間に存在すると考えられるので、破綻したナイダスは周囲からの保護がないため大出血となる可能性が十分にあるのであって〔乙六一号証〕、脳動静脈奇形の破裂の場合であっても、本件のような激烈な臨床経過を辿ることがあることは、右のような脳動静脈奇形の局在によって理由づけられるのである。

なお、新宮正医師は、シルヴィウス裂内に脳動静脈奇形は存在し得ない旨証言するが、文献〔乙九一号証〕によれば、シルヴィウス裂内に純粋に存在する脳動静脈奇形があることが窺われるのであるから、右のような脳動静脈奇形の局在を理由とする本件臨床症状の説明には何ら問題はないというべきである。

したがって、結局のところ、秀雄のくも膜下出血の原因は脳動脈瘤破裂であるとの被控訴人の主張は、統計的な観点から一般的な傾向に基づく推測を述べたものにとどまるものといべきである。

3  くも膜下出血を原因とする秀雄の死亡の業務起因性について

(被控訴人の主張)

秀雄の死亡の直接の原因となったくも膜下出血は、脳動脈瘤破裂により生じたものであるところ、次のとおり、秀雄が本件現場に入って以降の労働内容、労働条件、労働環境が脳動脈瘤破裂の前提となる脳動脈瘤壁の脆弱化をもたらし、さらに、発症直前の労働等が脳動脈瘤破裂の誘因となったものであって、秀雄の死は、本件業務に起因するものである。

(一) 業務起因性の判断基準について

労災補償制度の趣旨は労働災害に遭遇した労働者等の救済を目的とするものであるから、労働者の疾病の発症について基礎疾患等の業務以外の因子が競合している場合であっても、業務が基礎疾患を誘発ないし増悪させて疾病を発症させるなど、業務が基礎疾患と共働原因となって疾病を生じさせた場合には、当該疾病と業務との間に相当因果関係があると認めるべきである。

(二) 脳動脈瘤破裂の発生機序について

(1) 脳動脈瘤の発生原因

脳動脈瘤の発生原因については、従来、先天的要因を重視する見解、後天的要因を重視する見解、両者の合併を重視する見解等があったが、近時は後天性説が有力となっている。すなわち、脳動脈瘤は、脳血管分岐部での傷害と再生のバランスの破綻により生じており、実験的に血行力学的ストレスを軽減することにより、修復作用すなわち内膜増殖が起きること等が証明された。また、諸々の実験により、高血圧症のタイプにかかわらず、高血圧自体が脳動脈瘤の誘発に関与していること等が明らかとなってきた。

このようなところから、現在では、脳神経外科の分野の代表的教科書〔半田肇「脳神経外科学」・甲五九号証(17)〕でも、脳動脈瘤の病因については、先天的要因よりも後天的要因の方が強いと思われるとされており、その脳動脈瘤の形成の際に作用する後天的要因とは、血行力学的ストレス、高血圧、結合組織の代謝異常等であるとされている〔甲五九号証(26)、(27)〕。

(2) 脳動脈瘤の破裂に至る過程・脳動脈瘤壁の脆弱化

以前は、脳動脈瘤はかなりの確率で破裂するものと考えられていたが、近時、診断機器の進歩と予防医学の発達により、かつては発見されることのなかった未破裂の脳動脈瘤が発見される機会が増大し、種々の疫学的調査の結果、脳動脈瘤は、相当高率に存在するが、従来考えられていたほどには破裂の確率は高くないことが明らかになった。そして、加齢による退行性変化、高血圧や血流の乱れなどによる血行力学的負荷の増大、様々な血管作動性物質や血管透過性物質の関与等により血管壁が脆弱化した脳動脈瘤が、それに対応する誘因を得て破裂に至るものと考えられるのである。

(3) 破裂の誘因

近時は、多くの報告や調査結果から、血圧上昇が脳動脈瘤破裂の誘因となることがほぼ定説となってきた。すなわち、脳動脈瘤破裂の誘因として最も直接的に作用する因子は、脳動脈瘤壁に加わる血行力学的圧力であり、その重要な要素は全身血圧である。したがって、全身血圧を上昇せしめる労作や、感情の興奮、ストレス等が脳動脈瘤破裂の強力な誘因となるのである〔甲五七号証「新宮意見書」〕。

(三) 本件業務と秀雄の脳動脈瘤破裂との因果関係について

第一に、次の(3)ないし(7)のような秀雄の本件現場での日々の作業が、右(二)に述べた各因子の複合により、繰り返し秀雄の相当程度の血圧の上昇をもたらし、これが脳動脈瘤壁の脆弱化をもたらし、また、交感神経の緊張による血中のカテコールアミンの増加をもたらし、同様に脳動脈瘤壁の脆弱化を促進した。

そして、第二に、次の(1)ないし(3)のような秀雄の本件発症の直前の作業が、秀雄の発症直前の血圧を日常生活上経験する程度以上に急上昇させ、その結果、遂に、壁が脆弱化していた脳動脈瘤を破裂させ、本件くも膜下出血を発症させたものである。

(1) 重労働、特に上肢を中心とする静的筋労作

a 秀雄は、昭和五九年一月一六日から、本件現場において、前記「当事者間に争いのない基礎的事実」の1記載の本件業務に従事していたものであるところ、秀雄が仮設ステージから転落する直前に従事していた作業は、ピックハンマーによるコンクリート破砕作業である。この作業に使用していたピックハンマーの重さは7.5キログラムであり、それに重さ約1.9グラムの圧搾空気用ホースが接続されていた。秀雄は、右のように合計約9.4キログラムの重さの機械を使用してコンクリート破砕作業に従事していたのであって、この作業は、一五分程度で交代していたのであるが、機械が重いこと、固いコンクリートの破砕作業で振動があることなどから、秀雄にとり、肉体的に大変きつい作業であった。

b 秀雄は、このピックハンマーによるコンクリート破砕作業中、水平よりやや上向きに作業をしていた時に、突然倒れたのである。そして、水平より上方に向けた作業は、ピックハンマーを両腕で持ち上げて作業するため、下方へ向けた作業の時以上に大変な重労働となる。

c 重筋労働、すなわち、ある程度の強い筋肉の収縮を必要とする労働が血圧を相当に上昇させることは、医学界の常識である。そして、同程度のエネルギーを使う場合には、静的筋労作、すなわち筋肉の長さを変えないで筋肉を緊張させる運動の方が、動的労作、すなわち筋肉の長さを変える運動よりも、血圧を確実により上昇させるといわれている。

d 一般に、上肢の運動は、下肢の運動より血圧を上昇させるといわれている。そして、秀雄が本件発症直前に行っていたピックハンマーによるコンクリート破砕作業は、上肢を主体とした静的労作であり、約一〇キログラムの重さの物を持ち上げ、コンクリートに押しつけ、振動に耐えるため、上腕挙上伸展筋の負荷のほか、握力だけでも二〇キログラム程度が必要とされる労働である。

e これらの重筋労働が、交感神経を刺激し、カテコールアミンの合成を促進する等、脳動脈瘤の障害過程を促進する方向に作用することは明らかである。

(2) 振動

ピックハンマーは、手で持って作業する振動工具の中では一番強い振動工具の部類に属すると考えられる。そして、一般に、振動は、騒音と同様、交感神経の緊張による末梢神経収縮を引き起こし、血圧上昇をもたらすことが知られており、後記騒音と相まって、ピックハンマー作業中の秀雄の血圧をかなりの程度上昇させていたものと考えられる。また、振動によるストレスが、交感神経を刺激し、それがカテコールアミンの合成を促進する方向に作用することは明らかである。

(3) 騒音

本件現場では、トンネル内でピックハンマー等を使用してコンクリート破砕作業を行っており、トンネル内でのピックハンマー一台での作業中の騒音は一〇三ないし一〇八ホンであるが、五〇ないし七〇ホン以上の騒音では血圧上昇をもたらすものである。抗内の反響等のある本件現場での複数のピックハンマーによる作業中、秀雄の血圧は相当程度上昇していたものと推測される。また、騒音によるストレスも、交感神経の緊張等を通じて、カテコールアミンの合成を促進する等、脳動脈瘤壁の脆弱化に関与する。

(4) 長時間労働

本件現場での労働時間は、八時間の所定労働のほかに、毎日少なくとも二時間の時間外労働であった。厳しい肉体作業を内容とする労働が毎日一〇時間以上行われていたということは、前記のような作業による断続的血圧上昇を、それだけ長時間続けるということである。また、長時間労働は、血管障害を助長し、脳血管疾患を生じさせやすいものである。

(5) 交代制勤務

原判決一二頁二行目から六行目までの記載を引用する。ただし、原判決一二頁六行目末尾に「交代制勤務、夜間勤務が血管障害を助長するよう作用することも、よく知られた事実である。」を加える。

(6) 寒冷暴露

原判決一二頁一一行目から一三頁三行目までの記載を引用する。ただし、原判決一三頁三行目の「血圧上昇があった」を「血圧上昇にさらされていたのであり、このような寒冷暴露が、秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化を増す方向に作用していた」と改める。

(7) 所長の監督状況・日常生活

原判決一三頁四行目から八行目までの記載を引用する。ただし、八行目の末尾に「このような情動ストレスが、血圧上昇の方向に働き、また、血中カテコールアミンの増加をもたらし、脳動脈瘤壁を障害する方向に働くことも明らかである。」を加える。

(控訴人の主張)

秀雄のくも膜下出血の原因が、脳動静脈奇形破裂によるものであっても、脳動脈瘤破裂によるものであっても、次に述べるとおり、秀雄の死亡と本件業務との間に因果関係はない。

(一) 業務起因性の判断基準について

(1) 被災者に何らかの基礎疾患がある場合、当該疾患はもともと被災者の私病であり、業務は右疾患の形成の直接の要因となっていないのであるから、業務起因性の判断に当たっては、まず、業務と発症との間の条件関係が問題とされなければならない。

そして、この条件関係の存否は、「当該業務がなければ、当該基礎疾患は急激に増悪しなかった」という関係を基準として判断されるべきである。なぜならば、被災者の基本疾患については、業務と全く無関係に発症する可能性が常に存在するからである。

(2) 次に、相当因果関係については、右(1)のような条件関係が存在することを前提として、その発症に当たって、当該業務自体又はその遂行が相対的に有力な原因となっている場合に、これを認めるべきである。

そして、右の「相対的に有力」であるか否かの判断は、当該被災者を基準とする個別的、具体的な判断ではなく、健康な労働者ないし少なくとも当該業務の通常業務には耐えられる程度の当該基礎疾病を有する者を基準として決せられなければならない。「相対的に有力」かどうかの判断を被災者本人を基準として行うときは、重篤な基礎疾患を有する者が軽度の作業によって発症した場合、業務に特別な危険は何ら存しないにもかかわらず、常に業務起因性が認められることになり、結果的に条件関係の存在だけで業務起因性を認めることになって、妥当ではないからである。

(二) 脳動静脈奇形破裂がくも膜下出血の原因である場合の業務起因性について

秀雄の脳動静脈奇形の破裂は、医学的に見て、疾病の自然的経過によって生じた蓋然性が高いので、本件業務との間に事実的因果関係が存在しないものというべきである。

すなわち、脳動静脈奇形の破裂の原因ないし機序については、未だ確たる医学的知見が確立された状況ではない。

しかし、最近の医学的知見によれば、脳動静脈奇形の破裂は、導出静脈の未発達等に加え、長時間にわたる肥厚等の変性により生ずる導出静脈の灌流抵抗の増大に伴う血管内圧の上昇により、もともと脆弱なナイダス又は導出静脈の血管壁の負荷が増大し、最終的には血栓や塞栓により、あるいはその他の機会原因により生じると推論するのが、最も合理的である。

これを秀雄の脳動静脈奇形破裂についてみても、新潟労災病院脳神経外科部長江塚勇(以下「江塚勇医師」という。)は、「秀雄の脳動静脈奇形は、導出静脈の発達の悪い、すなわち静脈灌流抵抗の高い小さな脳動静脈奇形が、周囲組織から保護を受けないシルヴィウス裂という広い髄腋腔を形成する脳槽内でナイダスを露出して存在していた出血のリスクの高い症例であったところ、四二年間脳動静脈奇形内の乱流に曝された導出静脈は内膜損傷により狭窄し、次第に灌流抵抗を高くして行き、さらに長年の乱流によるナイダス内あるいはその出口の内膜変化を起こした静脈に血栓形成があった可能性も高く、本件コンクリート破砕作業中に、偶然、血栓の塞栓により導出静脈の閉塞状態となり、ナイダスの先は盲端となったため負荷が一気に高まり、破裂したものと考えられる。」旨の見解を示しており〔乙六一号証、当審における証人江塚勇の証言〕、秀雄の脳動静脈奇形破裂は自然的経過によって発症したとしているが、右の推論は、最近の医学的知見に基づく合理的な推論というべきである。

(三) 脳動脈瘤破裂がくも膜下出血の原因である場合の業務起因性について

仮に、秀雄のくも膜下出血が脳動脈瘤破裂によるものであるとしても、次のように、秀雄が本件業務に従事したことによる血圧の上昇は、日常生活において経験する血圧上昇に比べて著しい上昇とはいい難いから、それにより秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化が促進したなどとは到底いえないものであって、秀雄の死亡と本件業務との間に因果関係はないというべきである。

(1) 確かに、脳動脈瘤の場合、脳動脈瘤壁に全身血圧とほぼ同等の血管内圧がかかっていると考えられるため、脳動静脈奇形と比べ、全身血圧の上昇がその血管内圧に与える影響が大きいことは明らかであり、また、血管壁についてみても、脳動静脈奇形と異なり、脳動脈瘤は通常の動脈血管に生じたバルーン状の膨らみであり、瘤内に流れ込む血流の渦巻形成又はジェットフローにより徐々にその径を増すものと推定されるところ、この膨張に伴って生じる脳動脈瘤壁の劣化ないし脆弱化ということも破裂の重要な要因と考えられるものである。

しかし、そうであるとしても、脳動脈瘤壁の脆弱化には長期間を要するところ、秀雄は昭和五九年一月一六日から本件業務に従事したが、ピックハンマーを用いた作業には同月二七日から従事したに過ぎないのである。にもかかわらず、このような二週間の業務により脳動脈瘤壁の脆弱化が促進されるとする点で、被控訴人の主張はそもそも失当というべきである。

(2) さらに、被控訴人の主張は、次のとおり、本件業務における各血圧上昇因子それ自体とその本件業務時における作用を過大に評価し、本件業務による血圧上昇が自然経過を超えて脳動脈瘤壁の脆弱化を促進したとするものであって、妥当ではない。

a 寒冷暴露

労働環境のうち寒冷暴露については、冬服着用時における中等度寒冷刺激では血圧に有意な変化があることは認められていないところ、作業中は、暑くなってジャンパー等を脱ぐことがあっても、下着、長袖シャツ、セーター等三、四枚は着用しているのであるから、本件において、秀雄の体表面に寒冷刺激が現実に与えられたとは考え難い。

確かに、トンネル内と抗外とで気温差はあるものの、バッテリーカーによる移動が高速ではないことからすれば、気温の変化を感じることはないといえる。

仮に、気温の低い抗外に出ることにより血圧の上昇をみたとしても、ズリの搬出を終えれば再び気温の高い抗内に入るのであるから、血圧の上昇は一時的なものに過ぎず、このような一時的な血圧の上昇により、脳動脈瘤壁が急激に脆弱化することはない。

b 騒音・振動

ピックハンマーによるコンクリート破砕作業は騒音・振動を伴うが、人の全身血圧の上昇に、いかなる騒音・振動がいかなる影響を与えるのかに関する具体的な医学的知見はみられない。このことは、掘削作業に関連して生じる種々の健康障害を取り上げ、その要因及び対策を検討している甲一七号証においても、騒音・振動については、難聴等聴器障害や振動病等を発生させる危険因子として問題とするのみで、高血圧ないし脳血管疾患は問題とされていないことからも明らかである。

c 作業方法

労働内容のうち、ピックハンマーによるコンクリート破砕作業のような重筋作業、静的労作作業が全身血圧を上昇させることは否定できないが、その上昇は数分以内に、疲労により中断され、負荷直後すでに負荷直前値に復するという一過性のものであることからすれば、ピックハンマーを用いた作業に従事していたことにより、脳動脈瘤壁の脆弱化を急激に促進するとは考え難い。

d 昼夜交代勤務

ピックハンマーによるコンクリート破砕作業が開始される前の秀雄の夜勤の作業内容は、コンクリート破砕作業の準備作業であって、作業内容自体過重なものではない。また、夜勤の場合にも、昼間に睡眠は十分とれるのであるから、夜間に睡眠がとれないことを重視することは妥当でない。

(3) 右のとおり、本件業務の血圧上昇因子のうち、いかなるものが真に秀雄の血圧を上昇させたものであるかは定かでないというべきであるが、仮に、本件業務に従事することによる血圧上昇があるとしても、その血圧上昇は一過性のものであり、日常生活において経験する血圧上昇に比べて「著しい」血圧の上昇をもたらすとは考えられないのである。

第三  当裁判所の判断

一  争点1(秀雄のくも膜下出血は、秀雄が作業現場の仮設ステージから転落して頭部を強打したために生じたものかどうか)について

当裁判所も、秀雄のくも膜下出血は、秀雄が仮設ステージから転落し、頭部を強打したために生じたものとは認められないと判断する。

その理由は、以下に説示するとおりである。

1  秀雄が本件現場において倒れ込んだ状況等について

秀雄が本件現場において倒れ込んだ状況等については、原判決一七頁二行目から一九頁七行目までの記載を引用する。

ただし、原判決一七頁六、七行目の「他の同僚に大声で知らせ、すぐに」を「急いで」と改め、九行目の「返答がなかった」の次に「。なお、秀雄の近くで作業をしていた同僚らは、秀雄がズリ上に倒れ込むまでは、秀雄の身体や挙動に異常を感じていなかった」を、一八頁二行目の「乙」の次に「四三、」を、それぞれ加え、七行目の「信用」を「採用」と、一〇行目の「倒れてから約二五分後の午後三時一〇」を「午後二時五九」と、一九頁一行目の「散大しており」を「散大していた。救急隊員は、秀雄の気道を確保し、人工呼吸、心肺蘇生を実施し」と、それぞれ改め、一九頁二行目の「午後四時ころ、」を削り、七行目の「の五」を「〔写真5〕」と改める。

2  秀雄の剖検所見について

秀雄の剖検所見については、原判決一九頁九行目から二〇頁八行目までの記載を引用する。と

ただし、原判決一九頁九行目の「秀雄の解剖所見」を「佐久総合病院臨床病理部長石井善一郎が作成した剖検書」と、同行の「前記」から一〇行目の「所見のほか、」までを「脳底部における」と、一一行目の「小脳、橋角隅」を「小脳橋角隅」と改め、二〇頁一行目の「第三脳室」の次に「内」を加え、同行の「中程度」を「中等量」と改め、二行目の「実質」の次に「内」を、七行目の「外傷」の次に「の存在」を、それぞれ加え、七行目の「専門家の」を「解剖に当たった」と改め、同行の「考えられず」の次に「(なお、本件剖検においては、脳を取り出し、ホルマリンで固定する段階までは信州大学医学部病理学教室の助手であった江原隆史医師が行っており、石井善一郎医師は直接これに立ち会っていないが、剖検書の作成に当たって、右江原医師において秀雄の皮膚の表面や頭蓋、頭皮に外傷がないか否かを検査したところ、これらが全く認められなかったことを確認している〔甲五五号証の二、原審における石井善一郎医師の証言〕。)」を加え、八行目の「信用」を「採用」と改め、八行目と九行目の間に次のとおりを加える。

「また、石井善一郎医師は、右の剖検書の『4 脳底部血管系の組織学的異常所見』欄において、秀雄の脳底部の太い幹部動脈から派出する小動脈及び細小動脈に強い蛇行走行を示すものがあり、これらの動脈の内弾性板の欠如ないし形成不全を示すものが、正常内弾性板をもつ部位と交互に入り乱れて小血管集団をくも膜下腔に作っていること、これらの部位にある軟髄膜は著しく肥厚していること、また、脳表面から出る脳静脈系には、その壁が肥厚し波状を呈する膠原線維からなり、全く平滑筋を欠く異常構造をとる小静脈及びその周囲に、拡張した、極度に薄い壁をもつ静脈性毛細血管網が形成され、この血管網の破綻性急性出血がくも膜下腔に拡がっていることを指摘し、『5 考按』欄において、秀雄の広範なくも膜下出血の原因は右の異常静脈叢の破綻に因るものと考えられること、この破綻の直接誘因となったものが何であるかは不明であるが、少なくとも頭部に加えられた外傷によるものであることは解剖学的には証明することができず、むしろ外傷以外の誘因(例えば、血圧の急上昇、ストレス等)が考えられる旨の考察を示したうえ、秀雄の死因についての病理解剖学的診断として、『血管奇型の破綻によって起った非外傷性の急性脳底部くも膜下出血』との結論を示しているところである。」

3  秀雄のくも膜下出血の原因に関する新宮正医師の見解について

新宮正医師は、秀雄のくも膜下出血の原因は脳動脈瘤の破裂と考えられる旨の見解を示し、その根拠について、要旨、①秀雄のくも膜下出血の発症の様式、発症から死亡に至る急速な経過は、脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血に特有の臨床像であり、他の原因を考えることは困難であること、②秀雄のくも膜下出血の発症年齢は、脳動脈瘤破裂によるものと考える方が、脳動静脈奇形の破綻によるものよりも蓋然性が高いこと、③石井善一郎医師により秀雄のくも膜下出血の出血源とされる「血管奇型」は脳動静脈奇形とは考え難く、むしろ、右中大脳動脈分岐部に発生した比較的大きな脳動脈瘤であった可能性が高いこと、を挙げている〔甲五七号証〕。

なお、新宮正医師は、右の秀雄のくも膜下出血の原因に関する考察の過程において、頭部外傷が原因である可能性については、仮設ステージ上で作業をしていた秀雄が、発見時に約六〇センチメートル下のズリ上に転落していたことから、可能性としては無視できないとしつつ、剖検所見において脳実質の挫傷は認められないとされているところから、脳挫傷を伴わない外傷性くも膜下出血が秀雄が示したような劇烈な症状を呈するとは考え難いので、右の可能性は除外し得る、としている。

また、新宮正医師は、右の脳動脈瘤破裂の誘因については、一般に、脳動脈瘤破裂の誘因として最も直接的に作用する因子は脳動脈瘤壁に加わる血行力学的圧力であり、その重要な要素が全身血圧であるから、全身血圧を上昇せしめる労作やストレス等が脳動脈瘤破裂の強力な誘因となり得るとしたうえ、秀雄の本件現場における労働環境、労働条件、労働内容は右の脳動脈瘤破裂の強力な誘因となり得る十分な条件を有していた旨を指摘している。

4  判断

前示争いのない事実(引用に係る原判決の「一 当事者間に争いのない事実」の1)及び右1ないし3の認定事実によれば、秀雄は、本件現場においてピックハンマーによるコンクリート破砕作業中、突然、仮設ステージからズリ上に転落し、その直後に同僚らに発見された時には既に意識が無かったのであり、その後駆けつけた救急隊員が心肺蘇生措置を実施したにもかかわらず、全く意識を回復することのないまま転落から約一五分後には死亡するに至ったものであるところ、この死亡の直接の原因は脳底部における広範なくも膜下出血であるというのである。

しかるところ、秀雄の剖検所見においては、脳実質の挫傷、体表面の外傷、頭蓋骨骨折及び亀裂、脳硬膜損傷、硬膜下出血のいずれも認められなかったというのであり、このようなところから、秀雄の広範なくも膜下出血の原因は秀雄の脳底部の異常静脈叢の破綻に因るものと判断した石井善一郎医師は、剖検所見において、右の破綻の直接誘因となったものが何であるかは不明であるとしつつも、少なくとも頭部に加えられた外傷によるものであることは解剖学的には証明することができず、むしろ血圧の急上昇等の外傷以外の誘因が考えられる、旨の考察を示しているところである(なお、石井善一郎医師は、原審における証人尋問の際には、慎重に秀雄のくも膜下出血が非外傷性のものと断定することを避けているが、証言全体のニュアンスとしては、頭部外傷が認められないことや脳内の出血状況等を主要な理由として、非外傷性のくも膜下出血であるとの剖検時における自らの判断を維持しているものと窺われる。)。また、新宮正医師も、脳挫傷を伴わない外傷性くも膜下出血が秀雄が示したような劇烈な症状を呈するとは考え難いとして、秀雄のくも膜下出血が外傷性のものである可能性を明確に否定しているところである。そして、前示のように仮設ステージから秀雄が転落したズリ上までは約六〇センチメートルの落差しかなかったことは、秀雄に脳実質の挫傷、体表面の外傷、頭蓋骨骨折及び亀裂、脳硬膜損傷、硬膜下出血のいずれも認められなかったとの剖検所見の正確性を支持する事実というべきであり、右の点に関する剖検所見の正確性に合理的な疑問を抱かせる事実を認めるに足りる証拠はない。

右の認定説示よりすれば、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形の破裂によるものであるか、脳動脈瘤の破裂によるものであるかはともかく、いずれにせよ、秀雄のくも膜下出血が作業現場の仮設ステージから転落して頭部を強打したために生じたものと推認することは到底できないものというほかはない。

二  争点2(秀雄のくも膜下出血の原因は、脳動脈瘤の破裂か、それとも脳動静脈奇形の破裂か)について

当裁判所は、秀雄のくも膜下出血の原因は、脳動脈瘤の破裂であると判断する。

その理由は、以下に説示するとおりである。

1  控訴人は、秀雄のくも膜下出血の原因は脳動静脈奇形の破裂である旨主張するところ、その基本的な論拠は、要するに「剖検書の記載及び解剖医の供述は、脳動静脈奇形がくも膜下出血の原因であることを示している」との点にある(争点2に関する控訴人の主張の(一))。

そこで、まず、右の控訴人の論拠が、本件の証拠関係に照らして肯認することができるものであるか否かについて検討する。

(一) 石井善一郎医師が作成した剖検書〔乙五二号証〕の「4 脳底部血管系の組織学的異常所見」欄には、石井善一郎医師が考察した秀雄の脳底部血管系の「異常所見」に関する具体的な記載がみられ、また、剖検書の「病理解剖学的診断」欄には「血管奇型の破綻によって起った非外傷性の急性脳底部蜘蛛膜下出血」との記載がみられ、「臨床診断・病理学的診断名」欄には「脳底部広範くも膜下出血(脳底部血管奇型による)非外傷性」との記載がみられるが、それ以上に、その「異常所見」ないしは「血管奇型」が「脳動静脈奇形」であるとの記載がないことは、剖検書の記載自体に照らし明らかである。また、原審における証人尋問の際においても、石井善一郎医師は、秀雄の脳底部血管系の「異常所見」ないしは「血管奇型」が「脳動静脈奇形」であると特定する証言を積極的には行っていないことも、その証言自体に照らして明らかである。

右のように、秀雄の剖検に当たった石井善一郎医師自身は、被控訴人も指摘するように、その所見に係る秀雄の脳底部血管系の「異常所見」ないしは「血管奇型」について、それが「脳動静脈奇形」であるとは特定していないところである。

しかし、控訴人は、剖検書の「4 脳底部血管系の組織学的異常所見」欄における、①「小動脉、細小動脉に強い蛇行走行を示すものがあり」との、②「動脉の内弾性板が欠如乃至形成不全」との、③「(脳静脈系については)その壁が肥厚し」との各所見は成書における脳動静脈奇形に関する記述と合致するものであり、このことからすると、剖検書の「4 脳底部血管系の組織学的異常所見」欄の記載は、脳動静脈奇形を描写するものと考えられ、したがって、剖検書の「病理解剖学的診断」欄の「血管奇型の破綻によって起った非外傷性の急性脳底部蜘蛛膜下出血」との記載、及び「臨床診断・病理学的診断名」欄の「脳底部広範くも膜下出血(脳底部血管奇型による)非外傷性」との記載は、いずれも脳動静脈奇形がくも膜下出血の原因であることを示すものというべきである、と主張する。

確かに、控訴人が右に指摘する剖検書における①の所見は、甲一六号証「脳卒中」中の「拡張、蛇行した動静脈奇形の異常血管による周囲脳組織の圧迫」なる記述に、②の所見は、甲九号証「クモ膜下出血の病理」中の「動脈には逆に末梢血管圧の減少に伴い、中膜の菲薄化及び線維化・内弾性板の融解及び断裂などの(変化がみられる)」なる記述に、あるいは乙六二号証「脳神経外科学」中の「組織学的には、多数の大きな薄い壁をもった血管がナイダス内に存在するが、その壁は弾性板や筋層の発達が乏しく」なる記述等に、③の所見は、甲九号証中の「静脈壁は線維性に肥厚し」なる記述に、それぞれ類似する所見であると認めることができ(当審における証人新宮正の証言)、そもそも、脳動静脈奇形とは、脳動脈血が毛細血管を介さずに直接静脈に流入する血管奇形であり、静脈は動脈圧にさらされ、動脈、静脈ともに血流量、血流速が増大するために、動脈、静脈ともに径の拡大、壁の肥厚が生じ、静脈壁に筋細胞、膠原線維、弾性線維が発達し、また、動脈には内膜肥厚が生じる病変である〔甲五四号証「吉田意見書」、乙六二号証〕から、前示一2の剖検書の「4 脳底部血管系の組織学的異常所見」欄の記載を全体としてみても、それは脳動静脈奇形を描写する記述であると認めることができるように思われる。

そうであるとすれば、右のように、秀雄の剖検に当たった石井善一郎医師自身は、その所見に係る秀雄の脳底部血管系の「異常所見」ないしは「血管奇型」が「脳動静脈奇形」であるとは特定していないとしても、剖検書の所見は、これを客観的に考察すれば、脳動静脈奇形がくも膜下出血の原因であると判断しているものと理解することもできなくはない。

(二) しかしながら、吉田洋二教授は、秀雄の剖検の際に作成された脳組織標本と年齢、性、血圧などを一致させた対照標本とを検討した上で、前示一2の剖検書の「4 脳底部血管系の組織学的異常所見」欄に記載された所見について、次のような見解を示しているところである〔甲五四号証「吉田意見書」〕。

まず、脳動脈系の「太い幹部動脈から派出する小動脈、細小動脈に強い蛇行走行を示すものがあり、これらの動脈の内弾性板の欠如ないし形成不全を示すものが、正常内弾性板をもつ部位と交互に入り乱れて小血管集団をクモ膜下腔に作っている。」との記載については、そのような記載に該当する所見は秀雄の脳組織標本内には認められなかったとしたうえ、あえて、石井善一郎医師が指摘した所見であろうと推察される脳組織標本を検討しても、その標本に見られるような「蛇行走行」所見は対照標本内にも認められたとし、また、同様に、「小血管集団」は直径五〇ミクロン以下の毛細血管で、通常内弾性板は認められないものであり、もともと、くも膜下腔の毛細血管はよく発達し、しばしば血管集団を形成するものである、としている。さらに、剖検書中の「これらの部位にある軟髄膜は著しく肥厚している。」との記載について、秀雄の脳組織標本内に認められるような軟髄膜の肥厚も、対照標本内に認められたので、秀雄の脳組織標本内に認められるそれが病的所見であるとは考えられない、旨の見解を示している。

次に、脳静脈系の「血管壁が肥厚し波状を呈する膠原線維からなり、全く平滑筋を欠く異常構造をとる小静脈」との記載について、そのような所見は対照標本にも認められたので、秀雄の脳組織標本内に認められるそれが異常構造であるとは考えられないとし、また、「拡張した、極度に薄い壁をもつ静脈性毛細血管網」との記載については、一般に脳細静脈の壁は極めて薄く、右に該当する所見は認められなかった、としている。

さらに、吉田意見書は、石井善一郎医師が原審における証人尋問の際に行った「内頸動脈から派生している中大脳動脈の基部に直径一センチないし二センチぐらいの大きな塊があり、動脈であるか静脈であるかどちらともつかないような妙な血管がその周囲を作り、それが糸玉のようになってうねうねと局所に集って叢を作っている。」旨の血管奇形に関わる証言に言及し、右の証言にあるような「糸玉状の血管叢」は秀雄の脳組織標本内に認められるが、対照標本にも類似の変化が数は少ないものの見られるので、血管腫等の病的所見ではなく、正常範囲内の変化と考えられるとしたうえ、右の血管叢の壁は薄くなく、内腔の拡張も認められないので、それがくも膜下出血の原因であるとは考えられない、旨の見解を示している。

そして、吉田意見書は、結論的に、「本例に関し提供された資料には、くも膜下出血の原因と考えられる血管病変を認めることはできなかった。つまり、脳動静脈奇形によるくも膜下出血と診断できる所見は認められなかった。」としている。

(三) ところで、本件剖検に当たった石井善一郎医師は、病理解剖学を専門とする医師であるが、独自の専門的研究分野を構成する神経病理すなわち脳の病理は専門としていない医師であること、また、脳の血管は血管構築上も他の体の部位の血管と相当異なるところがあること、更には原審における石井善一郎医師の証言内容それ自体に照らせば、石井善一郎医師は、必ずしも脳血管の病理に通暁しているものとは認められないところである〔原審における証人石井善一郎及び同小口喜三夫の各証言、当審における証人新宮正の証言、弁論の全趣旨〕。

これに対し、吉田洋二教授は、独立した研究分野を形成している脳血管病理を専門とし、その分野における第一人者の一人であると認められるところである〔当審における証人新宮正の証言、弁論の全趣旨〕。そして、このような脳血管病理の専門家である吉田洋二教授が、右のように、秀雄の脳組織標本及び年齢、性、血圧などを一致させた対照標本を検討した上で、前示一2の剖検書の「4 脳底部血管系の組織学的異常所見」欄に記載された所見や、剖検書に記載されていないが、石井善一郎医師が原審における証人尋問の際に行った「糸玉状の血管叢」なる血管奇形に関わる証言の内容について逐一考察して、秀雄の脳組織標本には、剖検所見等が指摘するような「異常所見」ないし「血管奇型」は認められず、結局、「脳動静脈奇形によるくも膜下出血と診断できる所見は認められなかった。」と結論付けているのである。また、弁論の全趣旨によれば、控訴人においても、吉田洋二教授が意見書を作成する際に利用したのと同一の秀雄の脳組織標本を使用して、吉田意見書の内容の妥当性について検討したものと窺われるが、その控訴人からも、当審における口頭弁論が終結するに至るまで、吉田意見書の内容の妥当性については全く異論が述べられなかったのであるから、控訴人においても、右の秀雄の脳組織標本に基づく限り、吉田意見書の妥当性を承認せざるを得なかったものと推察されるところである。

そうであるとすれば、前示(一)のように、秀雄の剖検に当たった石井善一郎医師が作成した剖検書の所見をもって、客観的にみれば、石井善一郎医師は秀雄の脳動静脈奇形がくも膜下出血の原因であると判断しているものと理解することができるとしても、右のように、その判断の前提となる剖検書における「異常所見」ないし「血管奇型」の存在自体を認めることはできないといわざるを得ないのであるから、結局、剖検書の記載に依拠して秀雄のくも膜下出血の原因は脳動静脈奇形の破裂であるとする控訴人の主張は、これを採用することができないことは明らかである。

(四) なお、石井善一郎医師が、秀雄の脳血管病変について右のような誤った診断をしたのは、本件剖検においては、もともと秀雄のくも膜下出血の原因について外傷性のものであることが疑われていたこともあって、くも膜下の血腫を洗浄して主要血管を検索する前に脳のホルマリン固定が行われ、しかも、くも膜下腔の凝血塊を的確に除去する前に脳切が行われたため、脳底部血管系の系統的な検索が著しく困難となったことが一つの要因となったものと推察されるところである〔甲五七、五八、六三号証、乙五九号証、原審における証人石井善一郎の証言、当審における証人新宮正の証言〕。ちなみに、吉田意見書〔甲五四号証〕においても、秀雄の剖検の際に作成された脳のカラースライドに関する肉眼的所見として、「脳底部に高度なくも膜下出血が認められ、脳血管は厚い血腫に覆われている。したがって、血管病変を確認できなかった。」としており、本件剖検においては、脳血管を覆う血腫の適切な除去操作が行われなかったことは明らかである。

(五) 控訴人は、秀雄の解剖後本訴が提起されるまでの約五年の間に、病巣部位の標本が機械的に整理、廃棄された可能性は否定できないから、吉田意見書の資料とされた秀雄の脳の組織標本が秀雄の剖検資料のすべてであるとはいい難く、石井善一郎医師が確認したという血管奇形(脳動静脈奇形)が実際には存在しなかったと判断することはできない旨主張する。

しかしながら、確かに秀雄の剖検資料の一部は廃棄処分されていることが窺われる〔甲五三号証並びに弁論の全趣旨〕ものの、本件は剖検後間もなく労災保険給付の支給が請求され、その後も審査請求及び再審査請求が係属していた案件であり、剖検資料を保管している佐久総合病院もこの事実を承知していたのである〔弁論の全趣旨〕から、秀雄の死亡が業務上の災害によるものであるか否かの判断にとって重要な秀雄の脳の部分の剖検資料の一部が廃棄資料中に含まれていた可能性は低いものと思われる。そればかりでなく、現実に、剖検に当たった石井善一郎医師により秀雄の脳の病巣部位とされた組織の標本(プレパラート標本一〇枚)が存在しているというのに、同じ病巣部位の組織標本の一部が「機械的に整理、廃棄された」ものとは考え難いところである。

いずれにせよ、仮に秀雄の脳の病巣部位の標本の一部が廃棄された可能性を完全に否定することができないとしても、そのことを根拠として、前示(二)、(三)の認定判断を左右することができないことは明らかである。

(六) 他に、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形の破裂であると認めるに足りる直接的な証拠はない。

2  これに対し、被控訴人は、秀雄のくも膜下出血の原因は脳動脈瘤の破裂である旨主張するところ、それは、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形の破裂であるとする直接的な根拠はないことをいわば前提とした上、新宮正医師の見解に依拠し、秀雄のくも膜下出血の発症から死亡に至る急速な経過は脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血に特有の臨床像である、との点などを主たる論拠としているものである(争点2に関する被控訴人の主張(一)、(二))。

ところで、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形の破裂であると認めるに足りる直接的な証拠がないことは、前示1のとおりであるが、他方、本件においては、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤の破裂であると認めるに足りる直接的な証拠も、また存在しないところである(かえって、もともと秀雄のくも膜下出血の原因の認定に関する直接的な証拠の一つというべき剖検書〔乙五二号証〕においては、「3 脳底部血管系の異常所見(肉眼所見)」欄に、「脳底動脉及び動脉輪を構成する動脉には動脉瘤の存在を確認できず、」との記載があるが、前示1(四)のとおり、本件剖検においては、秀雄の脳底部血管系の系統的な検索が的確に行われなかったことは明らかであるから、剖検書の右の記載部分をもって、秀雄の脳底部血管系に動脈瘤が存在しなかったことを証明する証拠資料と評価することはできない。)。

このようなところからすると、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤の破裂であるか、それとも脳動静脈奇形の破裂であるかについては、秀雄の発症から死亡に至るまでの経過及び秀雄のくも膜下出血の発症の様式を踏まえ、脳動脈瘤破裂及び脳動静脈奇形破裂それぞれの一般的な臨床症候の特徴、傾向、くも膜下出血の原因となる疾患に占める脳動脈瘤破裂及び脳動静脈奇形破裂の割合、等を比較検討し、総合的にみて、脳動脈瘤破裂と脳動静脈奇形破裂のいずれが秀雄のくも膜下出血の原因である蓋然性が高いと判断するのが合理的であるか、という観点から検討されるべきものということができる。

そこで、以下、項を改めて、このような観点から右の争点について検討することとする。

3(一)  (秀雄の発症から死亡に至るまでの経過について)

秀雄は、本件現場においてピックハンマーによるコンクリート破砕作業中、突然、仮設ステージからズリ上に転落し、その直後に同僚らに発見された時には既に意識が無かったのであり、駆けつけた救急隊員が心肺蘇生措置を実施したにもかかわらず、全く意識を回復することのないまま転落から約一五分後には死亡するに至った(前示一1、4)。

(二)  (秀雄のくも膜下出血の発症の様式について)

秀雄の死亡の直接の原因となったのは、脳底部におけるくも膜下出血であるが、その範囲は、大脳脚間くも膜下槽を中心として両側前頭葉、側頭葉、小脳橋角隅、小脳腹面、背面、島正面に及ぶ広範なもので、側脳室、第三脳室内にも中等量の流動性血液が貯留していたが、脳実質内には出血は認められなかった(前示一3、争いのない事実)。

なお、右のように脳室内に貯留が認められた中等量の血液は、くも膜下腔よりの血液の逆流したものであって、いわゆる脳室内出血とは異なる。

したがって、秀雄のくも膜下出血は、脳内血腫、脳室内出血を伴わない純粋なくも膜下出血であるということができる〔甲五七号証〕。

(三)  (脳動脈瘤破裂及び脳動静脈奇形破裂それぞれの一般的な臨床症候の特徴、傾向について)

(1) 脳動脈瘤破裂は、脳内血腫、脳室内出血を伴わなくても、発症時より意識消失を来すことが多く、急速な経過で死亡する例も稀ではない〔甲五七号証、弁論の全趣旨〕。

(2) これに対し、脳動静脈奇形破裂によって生じるくも膜下出血は、脳動脈瘤破裂時の出血と比べると、一般的に程度が軽く、最も重篤な場合は死亡するが、その頻度は一〇パーセントないし一九パーセントであり、死因の大部分は大きな脳内血腫による脳嵌頓であり、まれに痙攣重積発作により死亡する、とされる。また、脳動静脈奇形は、脳表部に存在することが多く、脳表から脳実質に向かってくさび形に入っているという解剖学的特徴のため、くも膜下出血とともに脳内血腫を高率に生ずることが一つの特色とされる〔甲一六号証「脳卒中」、乙六二号証「脳神経外科学」、当審における証人新宮正の証言〕。

もっとも、脳動静脈奇形に起因する頭蓋内出血は、一般にいわれているほど軽症とは限らないとする宮坂佳男らの論文〔乙七三号証「脳動静脈奇形重症例の検討」〕もあり、これによると重症例は出血例の三五パーセントを占めるとされているが、これらの重症例の出血の様式を検討した結果、脳動静脈奇形の破裂が急速かつ重篤な意識障害を惹起する原因は、単なるくも膜下出血ではなく、大きな脳内血腫、著明な脳室内出血との合併であることが明らかにされている。

また、江塚勇医師が扱った症例の一覧表〔乙七〇号証〕によっても、四例の死亡例はいずれも脳室内血腫もしくは脳内血腫あるいはこれらを合併した症例であり、くも膜下出血のみを発症した症例は、いずれも後遺症が無いか、もしくは軽症に止まっていることが認められる。

(四)  (くも膜下出血の原因となる疾患に占める脳動脈瘤破裂及び脳動静脈奇形破裂の割合について)〔甲五七号証、弁論の全趣旨〕

(1) 脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血は、非外傷性くも膜下出血の七〇パーセントないし八〇パーセントを占める。

(2) これに対し、脳動静脈奇形破裂によるくも膜下出血は、非外傷性くも膜下出血の約一〇パーセントに止まる。

(五)  (発症年齢について)〔甲一六号証〕

(1) 脳動脈瘤破裂は、四〇歳台から五〇歳台に多く発症する。

(2) 脳動静脈奇形によるくも膜下出血の発症年齢は一〇歳台から三〇歳台が多く、全体の七〇パーセントないし九一パーセントを占め、一〇歳以下及び五〇歳以上の症例は少ない。ただし、男性においては四〇歳台の発症も少なくない。

4  右3の事実関係に基づいて考察すると、(一)の秀雄の発症から死亡に至るまでの経過については、秀雄が発症直後から意識がなく、救急隊員が実施した心肺蘇生措置にもかかわらず全く意識の回復をみないまま、発症から僅か一五分後には死亡するに至った点が特徴的であるということができるのであり、また、(二)の秀雄のくも膜下出血の発症の様式については、脳底部の大脳脚間くも膜下槽を中心として広範な拡がりを示すものであったが、脳内血腫や脳室内出血を伴わない、純粋なくも膜下出血であったことが特徴的な点であって、これらの諸点は、(三)の動脈瘤破裂及び脳動静脈奇形破裂それぞれの一般的な臨床症候の特徴との関係において、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤破裂であることを強く推認させるものということができる。また、(四)のくも膜下出血の原因となる疾患に占める脳動脈瘤破裂及び脳動静脈奇形破裂の割合の点も、一般的には、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤破裂である蓋然性の方が、脳動静脈奇形破裂である蓋然性より高いことを示すものということができる。なお、(五)の発症年齢の点も、秀雄が発症時に四一歳六か月であったことからすれば、これをそれほど重視することはできないが、少なくとも、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤破裂である蓋然性の方が脳動静脈奇形破裂である蓋然性に比べて高いと判断するについて、負の要因として機能するものでないことは明らかである。

右のとおり、秀雄の発症から死亡に至るまでの経過及び秀雄のくも膜下出血の発症の様式を踏まえ、脳動脈瘤破裂及び脳動静脈奇形破裂それぞれの一般的な臨床症候の特徴、傾向、くも膜下出血の原因となる疾患に占める脳動脈瘤破裂及び脳動静脈奇形破裂の割合、等を比較検討し、これらを総合的に考察すれば、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動脈瘤破裂である蓋然性の方が、脳動静脈奇形破裂である蓋然性に比べて遙に高いものと判断するのが合理的であることは明らかであるから、秀雄のくも膜下出血の原因は脳動脈瘤破裂であると推認するのが相当というべきである。

控訴人は、控訴人が主張する秀雄の脳動静脈奇形の発症部位である中大脳基部に導入動脈を持つ脳底部には前頭葉底部と側頭葉底部の間の広い髄腋のスペース(脳槽)があり、脳動静脈奇形のナイダスがその空間に存在すると考えられるので、破綻したナイダスは周囲からの保護がないため大出血となる可能性が十分にあるから〔乙六一号証〕、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形破裂であっても、秀雄が激烈な臨床経過を辿ったことや秀雄のくも膜下出血の発症の様式(脳実質内に出血が見られないこと)を問題なく説明することができる旨主張する。確かに、乙九一号証「シルヴィウス裂AVM」によれば、脳のシルヴィウス裂内に純粋に存在する脳動静脈奇形があるようにも窺われないではない。しかし、仮にそのような脳動静脈奇形が存在することを肯定したとしても、それが極めて少ない症例であることは明らかであって、そのような存在することが極めて少ない純粋型シルヴィウス裂脳動静脈奇形を想定することによって初めて秀雄が激裂な臨床経過を辿ったことや秀雄のくも膜下出血の発症の様式の説明が可能となるというのでは、秀雄のくも膜下出血の原因が脳動静脈奇形破裂である蓋然性は低いものといわざるを得ないことは明らかである(ちなみに、新宮正医師は、秀雄のくも膜下出血の原因となった脳動脈瘤は、脳動脈瘤の好発部位であり、比較的巨大な脳動脈瘤を形成しやすい部位でもあるシルヴィウス裂内を走る右中大脳動脈分岐部〔甲六二号証、当審における証人新宮正の証言調書添付図面〕に存在した可能性が高い旨の見解を示している〔甲五七、五八号証、当審における証人新宮正の証言〕が、その蓋然性は、前示の諸事実に照らせば、控訴人が主張するような中大脳基部に導入動脈を持つ脳底部に秀雄のくも膜下出血を惹き起こした純粋型シルヴィウス裂脳動静脈奇形が存在した蓋然性より遙に高いものと窺われるところである。)。

三  争点3(くも膜下出血を原因とする秀雄の死亡の業務起因性)について

当裁判所は、くも膜下出血を原因とする秀雄の死亡は、労働者災害補償保険法にいう業務上の死亡に当たるものと判断する。

その理由は、以下に説示するとおりである。

1  脳動脈瘤破裂の発生機序について

(一) 脳動脈瘤破裂の誘因

脳動脈瘤破裂の誘因については未だ医学的に完全に解明されたものとはいえないが、現在における一般的な医学的知見としては、脳動脈瘤破裂の誘因として最も直接的に作用する因子は、脳動脈瘤壁に加わる血行力学的圧力であり、その重要な要素は全身血圧であるとされている。

したがって、全身血圧を上昇させる労作や、感情の興奮、ストレス等は脳動脈瘤破裂の強力な要因となり得るということができる。

〔甲五七号証、六一号証「日本臨床・高血圧」、当審における証人新宮正の証言〕

なお、脳動脈瘤の破裂の誘因である全身血圧を上昇させる動作として代表的なものは、「力む」という動作(物を持ち上げる動作も、その一つである。)であるが、この関係で最近注目されているのが、力みに伴う「バルサルバ効果」である。すなわち、力むことにより、全身血圧が上昇するとともに、脳動脈瘤を外側から囲んでいる脳脊髄液圧も上昇するが、全身血圧が未だ上昇している状態で、脳脊髄液圧の方は先に急激に下降し、その結果、脳動脈瘤の内側からの瘤壁に対する圧力が差引きで非常に強くなるという効果であり、このことが脳動脈瘤を破裂させる強い因子として働くことになる〔当審における証人新宮正の証言〕。

また、全身血圧の脳動脈瘤壁に対する負荷という面では、蓄積効果が重要であり、たとえ、やや低い程度の血圧の上昇であっても、それが長時間継続することは軽視することができない。そして、人間の生理的変動をみた場合、血圧が下がる状態は休息の状態であるから、労働時間が長ければ長いほど高い血圧が維持されている状態、すなわち、脳動脈瘤壁に対する高い負荷が継続し、蓄積することになる〔当審における証人新宮正の証言〕。

ちなみに、脳動脈瘤の成因については、近年、先天的要因より後天的要因を重視する見解が有力となりつつあり、この脳動脈瘤の形成に作用する後天的要因として、血行力学的ストレス、高血圧、結合組織の代謝異常等が挙げられている〔甲五七号証、五九号証(17)半田肇「脳神経外科学」、五九号証(26)〕。

(二) 脳動脈瘤破裂に至る過程

脳動脈瘤は、脳動脈瘤壁が脆弱化すればするほど破裂しやすくなるが、この脳動脈瘤壁の脆弱化をもたらす因子として、加齢による退行性変化、高血圧や血流の乱れなどによる血行力学的負荷の増大、様々な血管作動性物質(血管を収縮させることによってその部分にかかる圧力を高めるように作用する物質。カテコールアミン類等。主として、交感神経の緊張状態のときに分泌される。)や血管透過性物質(血管内膜の透過性を亢進させる物質。ヒスタミン等。)の関与が考えられている。

そして、このような種々の因子が共働して脳動脈瘤壁に作用することにより壁が脆弱化した脳動脈瘤が、(一)でみたような全身血圧を上昇させる労作等の誘因を得て、破裂に至るものと考えられる。

また、最近の知見によれば、脳動脈瘤の破裂に至る過程は一方的に脆弱化が進行して行くといったような単純なものではなく、例えば、血圧が下がることによっていったん破壊された血管内膜が再生していく、膠原線維が補強されいく、あるいは中膜筋層の細胞が活性化していくなど、脳動脈瘤壁の脆弱化に拮抗する修復過程が存在することが明らかになってきている。

したがって、脳動脈瘤の破裂は、脳動脈瘤壁の脆弱化の進行過程と修復過程の拮抗の中で、バランスが崩れ、進行過程(障害過程)が優勢となった状態で惹き起こされるということができる。

〔甲五七号証、五九号証(9)ないし(12)、(25)ないし(27)、当審における証人新宮正の証言〕

(三) 脳動脈瘤の発生率と脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血の発症率等

なお、近年、診断機器の進歩と予防医学の発達等により、かつては発見されることのなかった未破裂の脳動脈瘤が発見される機会が増加し、その結果得られた疫学的調査により、脳動脈瘤が破裂してくも膜下出血を発症する割合は著しく低いものであることが明らかとなってきている(すなわち、脳動脈瘤の発生率は、調査の対象となった集団や脳動脈瘤の検出の手段によって報告ごとに差異があるが、例えば、二七八六例の剖検例の検索による報告では4.9パーセントとしており〔甲五九号証(20)〕、また、くも膜下出血以外の診断目的で行われた脳血管撮影により偶然発見された脳動脈瘤が約五パーセントの割合で存在したとする報告がある〔甲五九号証(21)〕。これを人口一〇万人に引き直すと、約五〇〇〇人が脳動脈瘤を有していることになる。これに対し、脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血の発症率は、我が国において人口一〇万人当たり14.5人が最高率(岩手県)とされており〔甲九号証「クモ膜下出血のすべて」〕、江塚意見書〔乙八六号証〕によっても、近年の新潟県上越地方で人口一〇万人当たり21.5人とされている。)。ただし、ひとたび破裂した脳動脈瘤が再破裂を起こす割合は高く、再発率を六三パーセントとしている文献もある〔甲九号証〕。

右のような医学的知見や、(二)の脳動脈瘤壁の脆弱化に拮抗する修復過程の存在についての知見は、未だ破裂していない脳動脈瘤が一般に自然の経過の中で破裂してくも膜下出血を発症するものとはいい難いことを示唆する知見の一つといえ、秀雄の動脈瘤破裂と本件業務の遂行との相当因果関係を判断する上で、相応の意義を有するものと思われる。

2  秀雄の健康状態について

秀雄の健康状態については、原判決四五頁一行目から一一行目までの記載を引用する。ただし、原判決四五頁一行目の「金岩建設に雇用された当初の」を「、本件業務に従事する際の」と改める。

3  本件業務の内容について

本件業務の内容については、原判決の「事実及び理由」の「第二 事案の概要」の「一 当事者間に争いがない事実」の1(ただし、前示「第二 事案の概要」の二1において補正後のもの。)及び原判決三六頁九行目から四四頁一〇行目までの記載を引用する。ただし、次のとおり補正する。

(一) 原判決三七頁一、二行目の「金岩建設に雇用された当初の」を「本件業務に従事しはじめた」と、三行目の「斫り」を「コンクリート破砕」とそれぞれ改め、三八頁三行目の「経験であり」の次に「、今までで」を、四行目の「実際にも」の次に「最も疲労度の高い」を、五行目の「四五、」の次に「四六、」を、六行目の「そして、」の次に「秀雄が本件発症直前に行っていたピックハンマーによるコンクリート破砕作業は、上肢を主体とした静的筋労作であるところ、」を、七行目の「労作よりも、」の次に「また、」を、三九頁一行目冒頭の「と」の次に「推測されると」を、同行の「ないにしても、」の次に「右のピックハンマーによるコンクリート破砕作業を中心として、」を、それぞれ加え、二行目の「一時的」から三行目末尾までを「血圧を上昇せしめ、また、このような重筋労働による交感神経の刺激がカテコールアミンの分泌を促し、かつ、そのような状態が断続的、反復的に継続したものと認められるのであり、これが秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化の過程(障害過程)を促進する方向に作用したことは明らかである〔甲五七号証、当審における証人新宮正の証言〕。ことに、ピックハンマーによるコンクリート破砕作業は前示のバルサルバ効果を伴う作業であって、秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化を強める大きな要因となったものと推認される。」と改める。

(二) 原判決三九頁四行目の「金岩建設の」を「本件」と改め、四〇頁二行目の「三〇日の朝」の次に「、」を加え、五行目冒頭から六行目の「ほか」までを「 右のような連続した長時間労働は、その分だけ高い血圧の負荷が長時間継続することを意味する。また、休息が少ないことは精神的なストレスの要因ともなり、交感神経の緊張によるカテコールアミンの分泌を促したものと認められる。また、労働衛生・産業医学を専門とする」と、一〇行目の「特に、」を「さらに、」と、一〇行目の「身」から四一頁一行目末尾までを「これにより生理的なリズムが乱れ、長時間の生理的な睡眠が妨げられ、睡眠による全身血圧の低下がもたらす障害された血管内膜の修復、中膜筋層の修復等の効果、すなわち脳動脈瘤壁の脆弱化に拮抗する修復過程の機能が阻害された可能性が高いものと認められる〔当審における証人新宮正の証言〕。」と改める。

(三) 原判決四一頁三行目の「程度であり」を「と高いものであり」と改め、五行目から七行目まで及び一一行目の「ること」をいずれも削り、四二頁一行目から三行目までを次のとおり改める。

「相当大きかったものと推認される。

もっとも、本件においては、人の全身血圧の上昇にどのような種類、程度の騒音・振動がどのような程度の影響を与えるのかを認定するに足りる的確な証拠はないが、本件のピックハンマーによるコンクリート破砕作業に伴う騒音・振動が秀雄の血圧の上昇にある程度の寄与をしたことを否定することはできないように思われる〔原審における証人服部真、当審における証人新宮正の各証言〕。

また、コンクリート破砕作業に伴い発生する粉塵の点も含め、右のような劣悪な作業環境が秀雄の精神的なストレスを高め、それが交感神経を刺激してカテコールアミンの分泌を促し、秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化の過程(障害過程)を促進する方向に作用したものと推認されるところである。」

(四) 原判決四二頁七行目及び四三頁二行目の各「斫り」をいずれも「コンクリート破砕」と改め、四二頁五行目の末尾に「したがって、秀雄は、ズリを捨てに抗外に出るたびに、厳冬下のトンネル内外の大きな温度差、寒冷に曝されていたものと推認することができる。」を加え、六行目から一一行目までを次のとおり改める。

「 右のように、短時間のうちに大きな温度差のある寒冷に曝されることは、全身血圧を上昇させ、血行力学的な負荷となるものであることは一般に知られた医学的知見であり、また、強い寒さに曝されること自体も全身血圧を上昇させる要因となるのであって、このような繰り返し加わった血行力学的負荷が秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化の過程(障害過程)を促進する方向に作用したことは明らかである〔甲一四、一八、一九、原審における証人服部真、当審における証人新宮正の各証言〕。」

4  判断

右の事実関係を総合的に考察して、動脈瘤破裂によるくも膜下出血を原因とする秀雄の死亡の業務起因性について判断する。

(一)  秀雄は、脳動脈瘤の基礎疾患を有していたものであるが、前示のように、これまで特段の既往歴はなく、本件業務に従事する際に受けた健康診断においても、血圧その他に格別の異常は認められなかったところであり、本件発症当時四一歳六か月と、脳動脈瘤破裂の発症年齢に関する一般的傾向を考慮しても比較的若年であったのであるから、秀雄の脳動脈瘤が確たる発症因子がなくてもその自然の経過により脳動脈瘤壁が脆弱化するなどして破裂する寸前にまで進行していたものとみることは困難というべきである。

(二)  これに対し、昭和五九年一月一六日から秀雄が従事した本件業務は、全体として、狭い既設トンネル内での高い騒音に囲まれ、作業に伴う粉塵が飛散し、しかも、厳冬下のトンネル内外の大きな温度差に曝されるという劣悪な作業環境下での、一日一〇時間もの長時間労働、一週間ごとの昼夜交代勤務等の厳しい労働条件の下にあったと認められるのであり、同月二七日からは、削岩機、ダルダ、ピックハンマー等の重量があり、かつ、高い騒音と強い振動を発生する作業機械を手で持ち上げて行う重筋労働が開始されたところであって、これらの作業環境、労働条件、作業内容が、一方では、秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化を促進する全身血圧の上昇を継続的、反復的に招来し、その蓄積効果をもたらし、かつ、このような重筋労働による交感神経の刺激がカテコールアミンの分泌を促して、秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化の過程(障害過程)を促進する方向に作用したのであり、他方では、脳動脈瘤壁の脆弱化に拮抗する修復過程の機能を阻害してしまったものと認められるのである。

とりわけ、ピックハンマーによるコンクリート破砕作業は、バルサバル効果を伴う上肢を主体とする静的筋労作であって、秀雄ばかりでなく、同僚のトンネル坑夫らにとっても、肉体的・精神的に強度の負担がある厳しい作業であったところであり、この作業による肉体的、精神的負荷は、秀雄の脳動脈瘤壁の脆弱化を強める大きな要因となったものと推認されるのである。

(三)  このようなところからすると、秀雄の脳動脈瘤破裂は、自然の経過に伴って発症したものであるよりは、右にみたような本件業務による秀雄の動脈瘤壁の脆弱化の過程を経て、破裂に至る準備状態が形成されたところに、発症当日の同月三一日におけるピックハンマーによるコンクリート破砕作業がいわば引き金となって、遂に破裂するに至った蓋然性が高いものと推認することができるというべきである。

本件において、右の推認を左右するに足りる事実関係を認めるべき証拠はない。

以上によれば、秀雄の死亡原因となったくも膜下出血は、秀雄が有していた基礎疾患である脳動脈瘤が、本件業務の遂行に起因する高度の肉体的、精神的負荷によりその自然の経過を超えて急激に悪化し、破裂したことによるものとみるのが相当であり、その間に相当因果関係の存在を肯定することができるというべきである。

したがって、秀雄の死亡は、労働者災害補償保険法にいう業務上の死亡に当たるものである。

第四  右のとおりであるから、被控訴人の本件請求を認容した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六七条一項、六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官塩崎勤 裁判官橋本和夫 裁判官川勝隆之)

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